ツンデレかぐやちゃん(竹取物語)

竹取物語を現代風に訳してみました

ついにかぐや姫の素性が明らかに

 そして、一ヶ月近く経った8月15日の数日前になって、この日ばかりは、かぐや姫、月を見ながら、人目をはばからず号泣。これを見て、さすがに爺さん、婆さんも
「これは、いったいどうしたことなんだ」
と騒ぎ立てる始末。かぐや姫も、さすがに、もう隠してはおけないと、泣きながら、
「今までも、何度も言おうとしたのですが、言うと必ず悲しむと思って、言わずに来てしまいました。だからと言って、もう、ここまで来てしまった以上、もう、隠してはおけません。私は、本当は、この世界の者ではなく、月の都の者なのです。けれども、昔、月の者たちと交わした約束事があって、そのため、こちらの世界に来ていたのです。そして、ついに、私は月に帰ることになってしまいました。今月の15日には、月の都から迎えの使者がやってきます。それで、この世界を去っていかなければならないことが、悲しくて、今年の春からずっと泣いておりました」
と言って、かぐや姫の目から、涙がドンドン溢れてきて、それが滝のように流れ出したんだって。すると、それを聞いた爺さん、
「これは、何と言うこと。私はな、確かに、おまえを竹の中から見つけたよ。ただ、こんな菜種くらいの大きさのおまえを、私と変わらないくらいの背丈になるまで育てたんだ。そんな愛おしいおまえを、迎えが来ると言われたって渡せるものか」
と言って、姫を連れて行かれることが、どうしても我慢できず、
かぐや姫を連れて行くくらいなら、いっその事、私を殺せ」
と、大泣きしながら、わめき散らしたんだって。その様子をみて、かぐや姫は、
「月の都には、私の本当の父・母がおります。そして、私も、ほんの僅かの間だからと言われて、こちらにやって参りましたが、この国では、思った以上に長く過ごしてしまいました。それに、私は月の都の父母のことも、全く覚えておりませんし、こちらではお爺さま、お婆さまを本当の親と思って、長い間、慣れ親しんで参りました。ですから、今更、月に帰ると言っても、嬉しくも何ともなく、ただ、悲しいだけでございます。帰るというのは、私の気持ちではありません。でも、帰らなければならないのです」
と言って、爺さん、婆さんと一緒になって、再び目から大粒の涙が次から次へと流れ出てきてしまったんだって。その話を聞いていた側仕えの人たちも、ずっと長年、お世話をしていて、その上品な振る舞いや美しさを見てきているので、かぐや姫と別れるとなると、とても悲しくて、食べ物どころからお湯や水も喉を通らないようになり、爺さん、婆さんと同じ気持ちで悲しんだんだってさ。

<ワンポイント解説>
 ここは、皆さん、昔話でご存じの「素性を白状する」シーンですね。それで、ここはみんな「泣きまくる」訳ですが、昔の人は、何かあるとすぐ泣きます。「泣く」というのは、感情を露わに表現することにつながり、小さな事でもすぐに涙を流す、ということは「感受性にすぐれている」として「素晴らしいこと」の扱いなんです。お涙ちょうだい的なお話は、比較的、日本人が好むものではないかと思いますが、源流は、すでにこの時期にあったんですね。

<参考用原文>
 八月十五日ばかりの月に出で居て、かぐや姫いといたく泣き給ふ。人目も、今は、つつみ給はず泣き給ふ。これを見て、親どもも、
「何事ぞ」
と問ひ騒ぐ。 かぐや姫泣く泣く言ふ、
「さきざきも申さむと思ひしかども、必ず心惑はし給はむものぞと思ひて、今まで過ごし侍りつるなり。さのみやはとて、うち出で侍りぬるぞ。おのが身は、この国の人にもあらず、月の都の人なり。それをなむ、昔の契りありけるによりなむ、この世界にはまうで来たりける。今は帰るべきになりにければ、この月の十五日に、かの本の国より、迎へに人々まうで来むず。さらずまかりぬべければ、おぼし嘆かむが悲しきことを、この春より、思ひ嘆き侍るなり」
と言ひて、いみじく泣くを、翁、
「こは、なでふことをのたまふぞ。竹の中より見つけ聞こえたりしかど、菜種の大きさおはせしを、我が丈立ち並ぶまで養ひ奉りたる我が子を、何人か迎へ聞こえむ。まさに許さむや」
と言ひて、
「我こそ死なめ」
とて、泣きののしること、いと堪へ難げなり。かぐや姫の言はく、
「月の都の人にて父母あり。片時の間とて、かの国よりまうで来しかども、かく、この国には、あまたの年を経ぬるになむありける。かの国の父母のこともおぼえず、ここにはかく久しく遊び聞こえて、ならひ奉れり。いみじからむ心地もせず、悲しくのみある。されどおのが心ならず、まかりなむとする」
と言ひて、もろともにいみじう泣く。使はるる人も、年頃ならひて、たち別れなむことを、心ばへなどあてやかにうつくしかりつることを見馴らひて、恋しからむことの堪へ難く、湯水飲まれず、同じ心に嘆かしがりけり。